Side Story

制作の合間に、ふと迷い込む空想の世界。

琥珀色の夜と、架空の旅のしおり

地下へと続く階段は、一段降りるごとに地上の喧騒を吸い込み、踊り場を過ぎる頃には自分の靴音だけが耳に届くようになる。重厚な防音扉の真鍮の取っ手は、冷たく、そして掌に馴染む重みがあった。

扉を押し開けると、そこには外の世界とは異なる密度の時間が流れていた。

まず目に飛び込んでくるのは、闇の中に浮かび上がる一本のアフリカン・マホガニーのカウンターだ。継ぎ目のない一枚板のそれは、数十年という歳月、何千何万というグラスの底に磨かれ続け、もはや木というよりは山中にある穏やかな湖面のようで、しっとりとした光沢をたたえている。
その「いつもの席」――カウンターの左から三つ目、わずかにカーブが始まる特等席に、彼はもう座っていた。

「待たせたね」
「もう二杯目だよ」
そう言って彼はグラスを軽く掲げて見せた。
「本文の文字詰めがどうもしっくり来なくてね、初めから全部やり直してたんだ」
「相変わらず、報われないことに命を削ってるね」
「そういう仕事だからな」と言いながら隣の席に滑り込むと、重厚な革張りのスツールが、低く上質な音を立てて私の体重を受け止めた。

言葉を交わすよりも早く、正面からスッとコースターが差し出される。年輩のバーテンダーは私の顔を見るなり、何も問わずに背後のバックバーへ手を伸ばした。手に取ったのは、特徴的な三角柱のボトル。グレンフィディックだ。
クリスタルグラスがカウンターに置かれる際、カチリ、と硬質な音が響く。それはこの木の密度が高い証拠だろう。

バーテンダーの手元で、大きな氷の塊が薄く削られ、そしてグラスに吸い込まれる。注がれる黄金色の液体が、カウンターの深い赤茶色と混ざり合い、宝石のように光を放った。
「……ちょうど今、君の分の氷を割り終えたところなんですよ」
バーテンダーが控えめに微笑む。

グラスから立ち上がるのは、青リンゴや洋梨を思わせるフレッシュな芳香。それがカウンターの古い木の香りと混じり合い、この場所特有の「安らぎの匂い」を形づくっている。私は指先でカウンターの滑らかな木肌に触れた。体温よりわずかに低いその質感は、心を凪の状態へと引き戻してくれる。静謐なひとときだ。
「いいカウンターだよな、相変わらず」
「ああ。ここに来ると、言葉が勝手に適切な重さになる気がするよ」

友人はグラスを軽く揺らし、私は届いたばかりのグレンフィディックに口を付ける。滑らかな木肌に腕をあずけ、私たちはどちらからともなく、とりとめのない話を始めた。
――最近の駅前の再開発がどれほど情緒に欠けるか。
――庭の木に遊びに来たムクドリに柿をあげたら毎日現れるようになった。
――カウンターの端で一人飲んでいる老紳士の眼鏡は相当に古いヴィンテージ品ではないか。
――ヴィンテージ品といえば祖父が使っていた倉庫から英国製の万年カレンダーが“出土”し、調べたところ、どうやら1950年代のものらしい。
この完璧に磨き上げられた木の舞台の上では、どんな瑣末な会話も、熟成された名画の一幕のように響くのだった。

やがて、彼は満足そうにグラスを傾け、ふと思いついたように切り出した。
「……で、前に話した『大人の遠足』なんだけどさ」
彼はコースターの端を、地図の等高線をなぞるような手つきで、ゆっくりと一周させた。
「伊豆の伊東まで足を伸ばそうと思うんだ」
「いいね。道中は景色も楽しめるし、日帰り旅にはちょうどいいと思う。ぜひ楽しんで」
「そこで頼みがあるんだが遠足のしおりを作ってくれないか? 伊豆方面は結構詳しいだろ?」彼はそこで言葉を切り、真剣な眼差しで私を見た。
「遠足のしおりか…」少し長めに間を置いてから私は答えた。「面白そうだな。乗るよ」
「乗ってくれると思ったよ。ほら、小学校の遠足でさ、教室でしおりが配られてページを開いた瞬間の、あの高揚感。旅先の情報、行程表、班の編成、おやつのルール。隅から隅まで、わくわくしながら読んだよな?」そう言って彼は飲み干したグラスを置いた。

私はカウンターの表面を撫でながら、遠足のプランを思案した。文豪が愛した伊東温泉街、昭和の情緒漂う懐かしい風景、相模灘の絶景が広がる海岸、豊かな海の幸、お土産には干物、まんじゅう、ぐり茶、あるいは椿油。何よりも、この旅の主役となるものは…。
思いを巡らせているうちに指先のマホガニーの感触が、脳裏にある別の「木の記憶」を呼び覚ました。かつて訪れたあの場所の光景が、鮮やかに浮かび上がってきた。

伊東の街の中心を流れる松川のほとりに、異彩を放って佇む大きな木造の建物がある。昭和3年に産声を上げた温泉宿「東海館」だ。外観からして美しい和風建築。当時の職人たちが「金に糸目をつけず」技を競い合った、いわば夢の跡。一歩足を踏み入れれば、磨き抜かれた床が飴色の光を反射し、古い杉の香りにノスタルジックな気分が高まる。

ちょうどこのバーカウンターと同じ木の感触を、私の指先は覚えている。廊下の手すりを撫でれば、何十年もの間、人の手が触れ続けてきた滑らかさが伝わってくる。職人が一削りごとに込めた情熱。旭日と鶴の彫刻、組子細工の欄間。それらは単なる装飾ではなく、訪れる者を現実から切り離す「装置」として、今も機能する。

これこそ友人の旅にふさわしい、と私は確信した。木の手触りと匂い、静謐な空間。伊東の歴史や文化に触れながら、ゆったりとした時の流れに身を委ねる「東海館」を旅のメインに据えれば間違いないだろう。

***

翌日、私はデスクに向かったが、しかしすぐにはペンは動かなかった。
最初は、彼が話していたようにポケットに入るような素朴な「遠足のしおり」を考えていた。だが、東海館のあの圧倒的な重厚さを表現するには、コピー用紙を綴じただけの簡素な体裁ではあまりに頼りない。

もっと大胆に、もっと情緒的に。

ゆったりとした流れのあるレイアウトで写真と文章を配置したい。旅雑誌の特集ページのように。日常から非日常へスイッチが切り替わる、静謐な雰囲気をつくりたい。架空の旅行会社が発行する会員誌のデザインをするような気持ちで、私は手を動かし始めた。

私が以前訪れたときに撮った写真を元に記事の構成を考える。訪れる者を圧倒する重厚な唐破風(からはふ)造りの正面玄関、120畳の大広間に漂うかつての宴の残り香、望楼から見下ろす松川のせせらぎ。それらを紙面というキャンバスに丁寧に置いていく。編集・デザインの作業というよりは、記憶の欠片を現実の世界へ少しずつ移植していくような感覚だった。

そして、伊東・東海館を舞台にした「架空の旅行雑誌の特集ページ」のような紙面が出来上がった。しおりというアイディアも生かし、縦長の紙面を蛇腹で四つ折りにする体裁とした。裏面には東海館喫茶室の記事が続き、風情ある柳並木の松川遊歩道を囲みのコラムで扱って、おすすめの食事処とお土産の紹介を載せる。

友人に旅のおすすめを伝えるだけなら、単に情報をメールで送れば済む話だが、私が依頼されたのは編集とデザインだった。デザインは情報を演出する。そして紙媒体という物理的なかたちをとることによって、より「気持ち」を伝えられる。

***

一週間後、私は出来上がったばかりの手製のサンプルを携えて、友人が待つ地下のバーへと向かった。デザインを初めて披露する場面というのは、いつも感情が難しい。期待通りの反応が得られれば嬉しいが、当然そうでない場合もある。反応が薄く、判断がつかないこともある。しかし、今日はきっと、喜んでくれるはずだ。なぜなら私は友人のことをよく知っているからだ。

重い扉を押し開けると、いつもの席でバーテンダーと談笑している友人の姿が見えた。私はバーテンダーに会釈して、カウンターへ歩み寄った。

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